
曹洞宗
吉国山 龍華院
慈悲と祈り
「いかなる場合も、他者を欺いたり、軽んじてはなりません。怒鳴ったり、腹を立てたり、他者の苦しみを望んではなりません。あたかも母が、たった一人の我が子を命懸けで守るように、全ての生命に対して、無量の慈しみの心を育てなさい。上にも、下にも、また四方にも、わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てなさい。立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、或いは横になろうとも、眠っていない限り、この慈悲の念をしっかりと保ちなさい。これが崇高な生き方であると云われます。」『慈経』
皆さまは普段から親しくしている仏様や菩薩方、ご先祖様はいらっしゃいますか。
彼らと心を合わせる聖なる時間、祈りという聖なる時間を、どのような形でも、ほんのわずかな時間でもかまわないので、一日のどこかでもうけてくださればと思います。朝仏壇の水をかえる、そっと手を合わせる、般若心経を唱える、呼吸をととのえる、坐ってみる、なんでもかまわないのです。
このように、われわれが私心のない祈りを捧げるとき、彼らはきっと応えてくださいます。われわれの祈りが、彼らへの想いが、かつて果たされなかったことはなく、今後も果たされないということは決してありません。結果は目に見えなくてもそこに在るのです。
この不思議を仏教では「ご冥助」と言い、「暗い助け」、要するに、はっきりと感じ取られたり直接見えたりするわけではないけれど確かに在るのだ、というのです。
われわれが、今日も無事に床につけたことや今日という日に感じえた小さな喜びや安寧は、わたし自身の努力のたまものなのでしょう。しかし、それは事の半分であり、もう半分は、彼らの豊かなご冥助がそそがれていたおかげかもしれないのです。
この真相はともかく、「おかげさまで」という明るい気持ちは、慈悲の心を深めるための大切な一歩になりましょう。つまり、他者に思いを馳せることによって、慈悲の対極にあり、かつ苦悩をより増大させてしまう「自己中心的な情念」から、われわれは脱することができるのです。
人が自己中心的な情念に取り憑かれたとき、外には、怒り、憎しみ、嫉妬、嫌悪などの邪念を起こし、内では、自己の欠点や至らなさを非難して、罪の意識にさいなまれてしまう。しかし、その対治である自他への寛大さ、愛情、ゆるしを基盤とする慈悲の心は、この自己中心的なあり方からわれわれを解放してくれるのです。
なぜならば、慈悲の念を抱くとき、われわれの関心は自分ひとりだけではなく、自他を含めた一切の生きとし生けるものに向かうからです。たとえば、今朝われわれが頂戴した一杯のご飯を思い浮かべてみてください。このお茶碗一杯が目の前に調うまでの多くの人々と大自然の働きに思いを致すとき、この意識をより具体的により鮮明につかめるかと思います。
この宇宙的視野を獲得したとき、われわれは自分を他のものと無関係に独立した存在と見なすことから離れ、他のすべてのもの、すなわち、生きている者、今は亡き人、眼に見えるもの、見えないもの、それらすべてとの繋がりを自覚し、この自分という微小なる存在は、大宇宙の一部であり全体でもあるのだ、ということを上手に思い出すのです。
自他の区別を離れたこの一体感がもたらす恩恵は計り知れません。この慈悲の念から、われわれは宇宙という大きな河の中をともに流れているのであり、一人ひとりがこの大河を構成する貴重な一滴なのだ、という励ましと宥恕の声を聴くのです。




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