
曹洞宗
吉国山 龍華院
魂と祈り
「おばあちゃんの魂なんて特に取り上げてね、ぐずぐずいうことなんてないですよ、当たり前ですよそんなこと。僕は、僕のおばあちゃんの魂を信じていますよ。だからそんなことを言わないのは馬鹿馬鹿しいからさ、でも、馬鹿馬鹿しいからって、おばあちゃんの魂ってものはちゃんと僕が想い出しているんだから在りますよ。 僕はね、ちょっといろいろと苦しくなると、あぁおばあちゃん助けてくれと言いますよ、言ったっていいじゃないか、おばあちゃんの魂が僕は見えるから、僕の記憶の中に在るんですよ、まざまざと、あぁおばあちゃんが居るんだと、僕はちゃんとおばあちゃんを経験することができます、出来る以上は魂が在るんです、それを魂っていうんですよ。魂なんてみんな諸君の中に在るんですよ。どっかふわふわしていると思うからおかしいんです。そうじゃない、諸君はみんな、自分の親しい人の魂を持って生きてますよ、想い出すときそれは来ますよ、すぐに。それが魂(たま)です、昔の人が思っていた魂(たま)です。今の人だって同じものです、魂(たま)です。それは生活の苦労と同じことくらい平凡なことですよ。同じことくらい平凡なことで同じことくらいリアルなことです。」(『小林秀雄講演 第二巻 信ずることと考えること』新潮社CD)
私も二十歳の頃父を亡くしましたが、亡くなってからの方が却って父のことを考えてしまう。時には感謝することも、時には小言をならべることもあるわけです。亡くなっているからといって父と子の関係が切れるわけでも影響を受けなくなるわけでもない。いや、むしろ亡くなっているからこそ名状し難い強さをもって私に迫ってくるわけです。この存在を「それは君の記憶の中に心の中に在るものだからただの妄想だよ」とそんな悠長なことを言ってはいられません。もしこの魂のリアリティーが幻だと言うのであれば、我々が知覚しているこの物理空間だって脳内現象として立ち現れているのだから全てが幻覚と言っていいでしょう。何かが存在する時、必ずしもそれが空間を占めるとは限りません。例えば、ヘッセの『シッダルタ』(手塚富雄訳)が私の琴線を打った時、その小説の主人公は私の眼前に確かに生きています。自身の思想を覆す程の感化をもって私を説得して来るわけです。皆さまも小説を読んで涙したことや映画を観てわくわくした経験がある筈です。前者は文字の羅列に過ぎず、後者は光と音の集まりに過ぎないというのに。
存在とは働きや影響力のことであり、これらの強度と密度が我々のリアリティーを左右します。世界とは、箱の中に客観的に点在する「もの」の集まりではなく、我々の行為と関係性によって生じた「出来事」の総体なのです。そうであるからこそ親しい人の魂という存在に働きかける作法として「祈り」という行為を決して軽んじてはならないのです。祈りも一つの行為です。行為であるならば必ず結果を生むのです。我々の祈りが、故人への想いが、かつて果たされなかったことはなく、今後も果たされないということは決してありません。結果は目に見えなくてもそこに在るのです。そしてこの祈りに力を与えるものが儀礼や作法なのです。
だからといって「葬儀には僧侶をちゃんと呼びましょう」「年回忌法要をちゃんとしないと故人が浮かばれませんよ」などと主張したいのではありません。個々人が納得する供養の仕方をすればそれで良いのです。ただ、私の願いは「色々な供養のかたちがあるけれどやっぱりお寺さんにお経を唱えてもらいたいな」と皆様に思っていただけるよう精進したいのです。




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